『中二階※1の注釈※2と建築物※3』
※1
最近読み終えた小説は少し風変わりだった。『中二階』(ニコルソン・ベイカー著 岸本佐和子訳 (1994) 白水社)、靴紐の切れたサラリーマンが昼休みにオフィスを出て、靴紐を買い、オフィスに戻る。この何気ない日常の物語に対して必要なページはどれだけ多く見積もっても数ページ程度だろうが、ベイカーは夥しい数の注釈をつけることで、『中二階』に197ものページを費やす。
※2
注釈は面白い。注釈は物語よりも克明で、同時に孤独である。注釈は約物の中で孤立し、かつ完結している。
話を『中二階』に戻すと、『中二階』は「何気ない日常の物語」と、「克明で孤独な注釈たち」で出来ている。僕らはいつだって「世界そのもの」を理解したいのだが、物語や何気ない日常が記述する対象は「世界そのもの」の解釈であり、「世界そのもの」ではない。僕らに出来る唯一のことは、既に認識している物事を「注釈をつけるように」記述することである。克明で孤独な「注釈」が、寄せ集まって「注釈たち」となる時、「世界そのもの」は一気に立ち現れる。世界そのものは事実の総体※aであると同時に、注釈の総体であるとも言える。
※3
建築物はまさに『中二階』の構造と一致する。建築物も、物語と注釈によって成り立つ。
「与件に答え、何気ない日常を成立させる」ことが建築物における物語であるとすれば、何気ない日常とは無関係に存在する事物が注釈である。例えば間取りや建ち方は物語で、目地幅や割付は注釈と言える。自動的に決定される事物が物語で、能動的に決定する事物が注釈である。手摺高さの決定は物語で、その手摺の色や形状の指定は注釈だ。物語には普遍的な核心があり、注釈にはそれがない。注釈には「世界そのもの」と接続し得る糊代があり、物語にはそれがない※b。
建築家の仕事は、建築物に注釈を充てがうことである。「世界そのもの」についての彼なりの認識を、克明で孤独な注釈の寄せ集めに込める。例えば、目地に、割付に、手摺の形状に——。
世界そのものは注釈の総体であったように、物語とは別の、いくつかの克明で孤独な物語に耳を傾ける時、建築物は一気に「世界そのもの」に接続する※c。注釈のポリフォニックな語りが、建築物をナラティブにする。建築物を読みたいと思うのなら、注釈を読めばいい。
それ以外に方法は、ない。
※a ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳 (2003) 『論理哲学論考』 岩波書店
※b もちろん、物語を意思を持って決定することはできるが、意思が強くなればなるほど、何気ない日常の成立から離れていく傾向が強くなる。何気ない日常が物語にあたるという意味で、『中二階』は建築物に似ていることを忘れてはならない。
※c 物語は個々の与件にそって半自動的に決定されるため、物語それ自体は個別回答である。個別回答であるがゆえ、世界の普遍性には接続しない。
初出:建築雑誌 2019-6