『建築と美』
象徴と建築
19世紀の哲学者、ホワイトヘッドは次のように言う。「象徴の目的とは、その時代の、その社会に生きている人間にとって重要だと思うものを浮き彫りにすることだ。」(A・N・ホワイトヘッド『象徴作用 他』)また、「建築は空間に翻訳された時代の意思である」というミースの言葉を登場させれば、建築とは、時代の意思の象徴だということになる。建築とはすなわち、象徴なのだ。だからどの時代においても建築家は、現代の社会を意識する。
とはいえ、建築に美しさを見出すのも、その時代に生きる人々である。古い建築などは、当時の時代の意思、すなわちイデオロギーが消え去り、もはや建築から時代の意思など読み取ることのできないものだが、そんなものからも、我々は美しさを見出すことが出来る。いや、精確に言うなら人々は、過去の意思を読み取った上で、象徴とは異なる美しさを建築に見出すのだ。
建築の、何が美しいのか。例えば、光が美しいのだ。素材が、形態が、比例が、その他建築にまとわりつくあらゆるものが美しいのだ。「美しいものは美しい」というトートロジーがそこに蔓延している。トートロジー。「トートロジーに意味はない。……トートロジーとは、理論の中心にある真空状態である。」とは、ウィトゲンシュタインの言葉だ。(R・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)
もう一度問う。我々はいったい建築の何に美を見出しているのか。「美しいものは美しい」というトートロジーによって真空状態になっている「美しさ」とは、何なのだろうか。ひとまず我々がなすべきことは、真空に空気を送り込み、美しさについて再び議論の場を用意することではないか。無意味なトートロジーに探りを入れ、美しさの中に意味を見出すことではいだろうか。そもそも人間は、ひとまずすべてを言語の差異の網の中にかける生き物だ。(F・de・ソシュール『一般言語学講義』)言語の網の目の中に入ったものは、意味を帯びる。言語の網の目から逃れたものが、トートロジーになり、(もしくは矛盾にもなるわけだが)ウィトゲンシュタインがいうところの「沈黙すべきもの」となる。だが、最初から網すら用意しないで、ただ「美しいものを美しい」と断言してしまうという思考停止が、果たして本当に美しいと言えるのだろうか。網の先が、沈黙でありトートロジーであるとわかっていたとしても。
改めて問いたい。建築の美しさとは何なのだろう。
建築の美しさ
ロージェは、「原始の小屋」を論じるにあたって次のように言う。「その男は自らを守り、かつ埋め込んでしまうことのないような住み家を求めていた。森の中に落ちていた枝は、このためには最適の材料であり、もっとも強そうなものを四本選んで垂直に立て、正方形に配置した。その上にまた四本の枝を横に架け渡し、さらにそのうちの二辺から互いに頂点で寄りかかるようにして一列の枝を組み立てた。男はこのようにしてできた屋根を木の葉で隙間なく覆い、日光も雨も漏ないように敷き詰めた。これが人の最初の家である。
立派な建築作品であると思われるものも、全て今述べたような簡素な小屋を基本にして造られている。このような一番最初の形の持つ単純性に接することによってのみ、根本的な過ちを犯さずに新に完璧な建築を達成することができるのだ。垂直に立てられた木の枝は、柱についての考え方を教えよう。その上に水平に並べられた枝は長押しの考え方を与えよう。そして屋根を作る寄り掛かった枝は切り妻の考え方を示すだろう。」さらにこう続ける。「これにより、建築様式の構成にとって本質的である部分と、必要により生まれたり、もしくは気まぐれに付け加えられた部分とを簡単に区別することができるわけだ。この中で、本質的な部分のみが美を生み出すことが出来、必要から生まれた部分は例外的な破格を作り出し、気まぐれから付け加えられた部分は全ての過ちの元となるであろう。」と。(M・A・ロージェ『建築試論』)引用が長くなってしまったが、ロージェにとって建築の美しさとは、必要最低限のもので組み上げられることである。原始の時代の意思と、近代建築革命のスローガンが同じである、とは面白い。
テラ・アマタの住居群は、B.C.400,000に建てられ、現在確認されている最古の住居であるという。これがちょうど、言語の起こりと言われている年代と同じであることは興味深い。恐らく、言語の起こりが先であっただろう。しかし、言語の飛躍的な発展は、住居の起こりに助けられたのではないか。人類は自ら安息の地を固めてはじめて、言語を飛躍的に発達させたのではないだろうか。カオスにただ彷徨うだけの人類が、コスモスを定着させて、はじめてカオスに打ち勝とうという意思を持ったのだと信じたい。ボルノウを引用するまでもなく、命名とはカオスから恐怖を引きはがす行為であるのだから。よって、自らの住居を「所有」してはじめて、人間は火の恐ろしさを知り、道具を保管することを知り、名付けが所有を続けることに役立つことを知った。もちろん推論の域を出ないことは承知の上で書いている。ともかく、ここからしばらくは、原始の小屋から初めて、古代の建築についてもう少し書き進めていくこととする。
ラスコーやアルタミラの洞窟壁画は、人間が世界に対して自らの内面世界を表現した、と言う意味で、画期的なことであった。世界に起こる表徴を読み取って、自らの表象世界を外界に対して表現する。外界を自らの手中に納めることで安心する、とは言語のもたらす利益の一つだが、ラスコー・アルタミラは言語のもたらす利益とまさに同じ方法で、安息の地をさらに安心なものとした。B.C.15,000のことであるから、この間、実に385,000年もの時間が経過している。壁画を描いた画家にとって、建築の美しさとは、自らの表象世界の現実化である。
そこからわずか5,000年、B.C.9,500には人類最古の神殿、ギョベクリ・テベが建ったという。自らの内面の世界で世界を染め上げることができると気づいてから、人類の建築することへの意思は一気に加速した。神殿は、人間の実用を目的としない。神に建築を捧げるために、神殿は建てられた。この時代の人々が思う建築の美しさとは、人間の実用から離れたところにあったということか。ハイデガーが言う「のため」から開放された、建築と芸術が蜜月の時代であったことは確かだ。(M・ハイデガー『存在と時間』)
B.C.8,000にはピラミッドが、B.C.2,500にはストーンヘンジが完成する。数学を発達させた古代エジプト人は、ピラミッドの純粋形態を美しいと思ったのだろう。初期ピラミッドが装飾に溢れており、後期ピラミッドに装飾の跡が見出せないことから考えても、エジプト人の純粋形態に対するこだわりが窺い知れる。
さて、ストーンヘンジは興味深い。ギョベクリ・テベやピラミッドが、建設しやすいように世界に溢れるものを人間が扱うことのできる大きさ、形に道具化したのに対して、ストーンヘンジは巨石そのものを、構成によって作り替えた。オランダの修道士であり、建築家でもあったDom Hans van der Laanは、自らの建築の源泉をストーンヘンジに求める。(A・Ferlenga他『Dom Hans van der Laan』)道具の構成ではない。世界そのものの構成が、また、構成がそのまま世界の動きを表現することが、ストーンヘンジの美しさなのだろう。構成が、美しいのだ。
紀元前も終わりに近づいてきた。とはいえ、ここに最も偉大な建築がある。パルテノン神殿だ。パルテノン神殿でもって、古代において、人々が建築の何に美しさを見出したのだろうかということを追うのは、ひとまず止めにする。ギリシア人は、比例、プロポーションに美を見つけた。そして建築の各部材に執拗に命名することによって、自らの建築を参照の対象とした。部材の命名。参照。パルテノン神殿の最も美しいところは、そんなところにあるのではないか。
ここで古代を振り返ろう。ロージェは必要最低限の部材で構成され、かつ実用的なものを美しいとし、ラスコー・アルタミラの画家達は過剰な表象を世界に表現することに美しさを見出した。ギョベクリ・テベの設計者にとって、美とは実用ではない。実用の代わりに神を建築物で表現するという象徴作用が美しいのであり、さらに建築に神という主題を掲げることが美しいのだ。ピラミッドの構想者は純粋形態の美しさを、ストーンヘンジの建設者達は、ただ構成することを美しさとした。パルテノン神殿は、比例やプロポーションはもちろんのこと、部材を命名し、後の時代でも参照可能にすることを美しいと思ったのだろう。シラーはホイジンガを引き合いにだし、手遊びと芸術の違いを説明する。シラーはホイジンガの遊びと芸術の関係の理論を「芸術形式の創作を人間の遊びの本能から解明しようとする理論」として退け、代わりに人間の二つの衝動を持ってくる。一つを素材衝動と名付け、もう一つを形式衝動と名付ける。前者は遊び(特に手遊び)に、後者は芸術に対応する。素材衝動・遊びが時間の流れに無抵抗なのに対し、形式衝動・芸術は「現在決定するとおなじように、永久にわたっても決定する……時間を廃棄し、変化を廃棄する」とシラーが言うように、時間に対して抵抗する。参照とはすなわち形式のことであり、時間を廃棄し変化を廃棄するという点で、まさしくシラーのいうところの芸術である。(J・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類の文化と遊び』 F・von・シラー『美学芸術論集』)
さて、ひとまずロージェの見出した美しさを「機能の美」と言い換えてはどうか。同様に、洞窟壁画を「装飾の美」、ギョベクリ・テベを「象徴の美」「主題の美」、ピラミッドを「形態の美」、ストーンヘンジを「構成の美」、パルテノン神殿は「比例の美」「均整の美」、そして何にも増して「参照の美」と言い換えることが出来そうだ。
加えて、近代建築は「装飾の美」の立場を「素材の美」に置き換えることで世界中を席巻したことも付け加えておく。また、工業化に従った近代建築はディテールを突き詰めることに美しさを見出す。これを「詳細の美」と言うことにしよう。同時に、主題を消滅させて、その代わりに空間の重なりに重きを置く。「連鎖の美」とでもしておこう。さらにポストモダンに入り、ヴェンチューリは「DUCK」において、像をそのまま建築化することを見つけ出す。ミチェル・ウィリアムスは『建築の形態言語』においてこれを「連想の美」と呼んだ。
我々が建築に対して見出す美しさはこれで、大方出揃ったのではないだろうか。時系列順に整理すると、「機能の美」「装飾の美」「象徴の美」「主題の美」「形態の美」「構成の美」「比例の美」「均整の美」「参照の美」「素材の美」「詳細の美」「連鎖の美」「連想の美」という、13の美があげられよう。
修辞の美しさ
私は、「修辞の美」という美しさを、ここに付け加え、建築の美しさを14にしたいと思う。ミッチェル・ウィリアムスは、建築家の武器を、壁・柱・梁・屋根・床・窓・扉と定義した。なるほど、古今東西いかなる建築も、この7つの武器の配置に過ぎない。上にあげた14の美しさも、すべからくこの7つの武器の配置があって、はじめて表現される美だ。建築の美は、修辞の美の先に表現される。修辞の美は、すべての建築の美に先立つ。ひとまず、建築における修辞の美とは何かを明確にしておこう。ここでいう修辞の美とは、ウィリアムスのいう7つの武器を単語(形態素や音素といった、言語学的な用語を用いてもよいが、そうなるとどこまでが基本要素であるか、という探求がつきまとうため、ここでは単純に単語とする。)と考え、7つ単語の組み合わせ方法が、通常とは異なるものを言う。
さしあたって、修辞の美を除く、13の美はひとまずそれぞれ体系化されているといえよう。13の美すべてが、言語と親和性があるかどうかは疑わしいが、それぞれそれなりに言語化され理論化され、体系化されている。アリストテレスにはじまって、ウィトルウィウス、アルベルティ、ミース、コルビュジェ、ヴェンチューリ…。あらゆる建築家が、あらゆる美学者が、13の美の領域を横断して13の美を理論づけている。美しいものは美しいというトートロジーに魅せられながら、その誘惑に、その真空に打ち勝つかのように、美しさを言葉で表現しようとした。建築単体では言説化できない場合は、他の芸術の理論を借りてまで、言葉で表現しようとしてきた。13の美の理論化は、彼らに譲ることとしよう。13に先立つ、1つの美しさ・建築における「修辞の美」を、私は体系化しようと思う。
諸芸術と建築
修辞。修辞を馴染みのある言葉に置き換えるとレトリックとなる。古くから西洋において、学問・修辞学として理論化・体系化されてきた。その始祖はアリストテレスだと言われている。修辞学について深く見ていく前に、まずは建築がその他の芸術とどこが似ていて、どこが決定的に異なるか、見解を述べようと思う。一般的に芸術と言われるものは、絵画・彫刻・音楽・文学・映画・写真・演劇・舞踊、そして建築の9つに分類されよう。異論はあろうが、その他多くの芸術は、つきつめればこの9つのどれかに分類されると思う。(例えば戯曲は演劇と文学を跨いでおり、ここでは戯曲のような複数の領域を横断する芸術を否定しているわけではない。)よって、ひとまずこの9つを体系化したい。
時間。芸術にとって時間は避けては通れないだろう。あらゆる芸術は、時間に関心があるといっても過言ではない。では時間という主題で、諸分野を分類してみてはどうだろうか。とするならばまずは、作品の中に時間が内在されているか否か、という観点で分類してみたいと思う。といっても、時間を内在するとはどういうことか。もう少し精確にしてみたい。確かに鑑賞行為それ自体は、一定の時間を必要とする。ただ、ここでいう時間の内在とは、作品自体に始まりと終わりがあるということだ。A地点からB地点へと、線形的に時間が進むかどうか、という点に観点がある。よって「時間を内在する作品」とは、「始まりと終わりがある」作品のことをさす。
この定義にしたがってまずは、時間が内在されていない芸術分野を蒐集したい。絵画・彫刻・写真がこれに当てはまるだろう。一方時間が内在されている分野を蒐集してみる。文学・音楽・映画・演劇・舞踊・建築が集まってくるだろう。次に、時間を内在する芸術分野のうち、過去から未来へと進む時間(クロノスとでもというべきか)に抵抗できるか否か、という観点で再びカテゴライズしていく。時間に抵抗できないものは、音楽・映画・演劇であり、反対に時間に抵抗できるものは、文学・建築であると言える。
以上をまとめると、
・時間を内在しないもの ――絵画・彫刻・写真
・時間を内在するもののうち、時間に抵抗出来ないもの――音楽・映画・演劇・舞踊
・時間を内在するもののうち、時間に抵抗出来るもの ――文学・建築
となる。なるほど、映画や演劇が音楽を取り込んだのも納得出来る。建築に文学性を見出すのも、わかる気がする。時間において、同じ性質を持っているからだ。
修辞学ー1
建築よりもまず先に、文学における修辞学について考えてみる。文学を芸術たらしめているものは何か。思い当たる要因としてまず挙げられるものが、レトリックであろう。説明書と文学テクストとの違いは、文学テクストが際立ってレトリカルであるということに尽きる。この、修辞とはいったい何なのだろう。レトリックとは何であるのか。
レトリックの訳語ほど、種類に満ちたものはない。修辞、文彩、説得法など、レトリックの邦訳は様々である。邦訳だけでなく、どの言語に訳するときにも、この問題はつきまとう。(R・バルト『旧修辞学』)
そこでまず、レトリックという言葉の射程範囲を明確にしようと思う。アリストテレスはレトリックを、1.説得立証法、2.修辞法、3.配列法に分類した。この分類をもとに、さらに1.発想、2.配置、3.修辞、4.記憶、5.発表という五つに分類したのがキケロである。(M・T・キケロ『弁論家』)
キケロによるレトリックの定義は、
1.発想―いうべきことを見いだす
2.配置―見いだしたことを順序だてる
3.修辞―言葉に装飾を加える
4.記憶―原稿を暗記する
5.発表―身振り手振りを交えて、抑揚をつけて話す
の5つのことである。
現在確認されているレトリック技法は403個あるが(中村明『日本語の文体・レトリック辞典』)これらはスキーマとトロープに大別される。スキーマとは、通常の文にの語の配列をずらす技法のことであり、トロープとは、比喩表現が用いられた技法のことである。以上がバルトをして旧レトリックと名付けられた、古典的レトリックの概略である。
古典的なレトリックとは、大衆を説得させるものであった。プラトンはレトリックを「弱い論をより強いものにする術」とみなして、非難している。プラトンの主張によると、真実でないことを真実らしく聞こえるようにする術がレトリックなのである。(プラトン『ゴルギアス』)一方アリストテレスの立場に立つと、レトリックは弁論術だという。科学的思考が論理学に代表される弁証術だとすれば、レトリックは正しい論を用いて、大衆にその論を滞りなく伝える術であるというのがアリストテレスの立場である。(アリストテレス『弁論術』)
その後、活版印刷術が発達し、議論の場が空間上から紙上へ移るにつれ、教養としてのレトリックは概ねキケロの定義した1.2.3.に限定されるようになった。さらに科学・技術のさらなる発達に伴い、言葉をありのままに表現することこそ文章の美徳とされ、20世紀前半までくると教養としてのレトリックは、もはや臨死体となっていた。科学実証主義が幅を効かすようになるにつれ、 プラトンのレトリックの見解が蘇り、確固たるものになる。
とはいえ、芸術の世界では、特に文学の世界においては、レトリックは未だ確固たる位置を占めている。そして科学が真理とされる現代においてさえ、文学の立場が揺るぎないものである以上、レトリックが完全に死んだとは言い切れないだろう。例えば小説を例にとると、確かにストーリーのない小説は読めたものではないが、しかし真の読書家は、物語の中にある、たった一行の文に宇宙を見ることだってある。詩は、このような作用がもっと強いと言える。詩は、レトリックの宝庫だ。時に人は、レトリックに宇宙をみる。文学だけではない。音楽愛好家は、ひとつのフレーズに世界を見出すことがあるし、映画鑑賞者は、たった数秒のシーンですべてを語り尽くす。建築だって同じことであろう。
日本におけるレトリック研究の第一人者である佐藤信夫は、現代におけるレトリックの役割をこう見定める。つまり、「極めて科学的な、論理的であり実証主義的な言語学において、どうも言語学では担えそうにないものを、レトリックは担っているのではないか」と。「我々が抱く感情には、どうも既存の言葉では言い表せそうにないものがある。」(佐藤信夫『レトリックの記号論』)これは数多くの芸術家が言う、「私は言葉にならないものを表現するために、作品を作る」という常套句とほとんど同じではないか。修辞学は2000年もの間、聴衆をひきつける方法、文章をうまく書く方法について研究していたが、修辞学を学んだからと言って弁論家になれるわけでも、文豪になれるわけでもない。レトリックは、ウィトゲンシュタインのいう「沈黙せねばならない」、その沈黙の先をなんとか表現するために存在するのだと、佐藤の筆致から読み取ることができるのではないか。
また、外山滋比古は『修辞的残像』のなかで、「レトリックは、コンテクストを変節するものだ」と主張する。レトリックは文脈の変節点、すなわち脱臼箇所である。この脱臼箇所というのが興味深い。写真家の古屋誠一は、死んだドイツ人夫人ばかりを集めた写真集を、『Aus den Fugen』(ドイツ語で脱臼の意味)と名付けて発表した。古屋の中にある妻の記憶は、もっと時間的に線形的なものであっただろう。通常の時間の進み方からずれることなく、本来の配列通りに記憶される。記憶とはそういうものだ。だが、記憶がひとたび写真となると、この本来の配列からズレていく。記憶の中で意味として機能するために収まるべき位置から間接が外れ、機能しなくなった時間の突端が、『Aus den Fugen』の中の、いくつかの写真なのだろう。ここでいう脱臼とは、本来機能的なものが機能しなくなることのメタファーであり、ここでは我々が通常感じている時間の流れから外れることである。外山のいうレトリックとは、写真集『Aus den Fugen』のように、コンテクストのみならず時間からも脱臼したものなのだ。
その点を如実に表す実験がある。被験者は、あるまとまった文章を読む。文章はピリオドごとわけられる。被験者はピリオドまで読むと、その一文の内容が理解できた瞬間に、ボタンを押す。A・オートニーらが1978年に行った実験である。(菅野盾樹『レトリック論を学ぶ人のために』)オートニーらは、この文章の中に、レトリックが用いられている一文をいくつか入れておいた。結果は予想通り、通常文を理解する速度に比べて、レトリックを用いた文を理解する速度は、幾分か遅いというものであった。通常文が2秒足らずで理解できたのに対し、レトリック文は理解までに平均3.5秒を要する。
佐藤・外山のレトリックに対する見解をまとめよう。佐藤の見解によると、レトリックは通常の言葉では表現しにくいものを、なおも言葉で表現することであった。これには比喩の力が必要だと佐藤は続ける。佐藤のレトリック論が主に、隠喩にはじまり、換喩・提喩など、総称すると比喩の研究であったことからも、佐藤のレトリックの認識を、トロープ的であるとしてよいのではないか。一方外山の方は、比較するとスキーマとしてのレトリックを重視していたのだろう。変節、古屋でいうところの脱臼をレトリックの中に見出すことに重きを置いた。脱臼するのはコンテクストであり、時間である。よってトロープを「言葉を超えた沈黙の世界を言語化する能力」、スキーマを「コンテクストと時間を変節、あるいは脱臼する能力」と捉えたい。
修辞学-2
見事なことに、トロープ・スキーマのそれぞれの能力は、かつて我々が建築を芸術だとみなしていた時代の、建築の能力に合致するのではないか。「人類は洞窟を出て、農耕を開始し、集落を営み、都市を築き、争い、協力し、ともに信じ、あるいは裏切りを余儀なくされる。水運が栄え、キャラバンが組まれ、鉄道が敷かれ、ハイウェイが伸びて、航空機が空を飛び交う。狼煙が焚かれ、角笛が吹かれ、伝令が走り、早馬が駆け、電信が打たれ、電話が通じ、インターネットが貼り巡らされる。教会でメッセージが流され、ラジオが語りかけ、TVが置かれ、地上波は衛星を経由するようになる。」とは竹山聖の言葉である(竹山聖『建築という思考――建築的欲望をめぐる臨床建築学的考察』)。興味深いことに、洞窟を出て、衛星を経由するようになっても、つまり引用した竹山の言葉はコミュニケーション手段の変遷だといえるが、コミュニケーションの道具である「言語の能力」は、その威力と弱点の両点において、変わることはない。言語の威力は、まさに我々の文化を作り上げる点にある。同時に弱点として、未だに言語化できない沈黙を内部に孕んでいるし、時間に対して無抵抗である。だからこそ人間はその威力に抵抗するかのように、その弱点に手を差し伸べようとするかのように、レトリックを用いるのである。レトリックは、更新こそすれ、変化も消滅もしない。 これでレトリックの恒常性は言語の能力と、その限界が不変なことに依拠していることを確認した。加えて、レトリックは単なる術であることも忘れないようにしたい。プラトンが言うにもアリストテレスが言うにも、レトリックとはすなわち「術」であった。術とは技法のことであり、もっと言えば道具のことである。道具は時代によって使用頻度こそ変化すれど、道具を道具たらしめる、機能自体に何ら変化はない。万年筆はボールペンに覇権を譲ったかもしれないが、覇権を譲り渡したからといって書くという機能までもが失われたわけではない。
建築に残された美しさ
同時にこれだけ時代が変化しようと、建築の威力と弱点もそれほど変化は見られない。だから人間は言語と同様に、その威力に反発し、その弱点を補うように、建築に対してもレトリックを用いるのだ。始原の建築から、恐らく人類最後の建築まで、建築はあらゆる時間のあらゆる地域のイデオロギーを象徴し続けてき、象徴し続けていくだろう。その中で多くの美を見出し、その美を表現してきたし、これからも表現し続けていくのだろう。しかし先にあげた、建築の13の美しさのうち、現代において生き残っているものがいったい幾つあるのだろうか。どうやら現代の我が国において、「建築は芸術ではない」、というイデオロギーが主流となってきているようだ。建築がイデオロギーを象徴するものならば、なるほど、確かにこれらの建築の美しさは、まず淘汰の標的となるのだろう。建築は「芸術ではない」のだから。
「機能」・「装飾」・「象徴」・「主題」・「形態」・「構成」・「比例」・「均整」・「参照」・「素材」・「詳細」・「連鎖」・「連想」……ここにあげたすべての美しさは、ひたすら白く白く塗り籠められ、まさにホワイトアウトしようとしている。確認するが、現代の我が国の建築の話だ。機能を突き詰めることもせず、装飾は罪悪であるために排除する。何かに全身全霊をもって建築を捧げるわけでもなく、何か主題を持つわけでもない。形態は理性を失い、同じく厳密な幾何学構成から逃れようとする。比例は悪しき伝統であり、その形に均整がとれているかどうかなんて本人にすらわからない。過去の様式・規範は打破されるべき対象であり、とりつかれたかのように新奇さを追い求める。素材は白く塗り籠められ、ディテールはなるべく隠すことが美徳とされる。めくるめく空間構成のない、フラットな空間がそこにあり、連想すべきものもない、ただひたすら白い白い、大人しい過剰。
これが自由だと言われれば、そんな気がしないでもない。 これが象徴すべき現代のイデオロギーだというのなら、それも仕方なかろう。建築とは空間に表現された時代の意思なのだから……。
建築の美しさが自由の名の下に、民主の名の下にことごとく臨死体となるなかで、それでもなお、13の美しさ戦死者に隠れてひっそりと漂流し、なんとか生き長らえている美しさがある。言うまでもない、「修辞の美」だ。イデオロギーの象徴の剣先から逃れて今なお、建築界を漂っている。なるほど、先ほど見たようにレトリック術は開発こそされど、消滅も変化もしないのだ。術とは道具である。ついで、建築も確かに道具であった。建築も万年筆と同じく、新しい道具が開発されたからと言って、その機能は無用にならないだろう。象徴されたイデオロギーがいかに古くなろうと、建築はそんなことを気にもとめず、ただ自らの機能を我々に奉仕している。
また13の美が、何らかの概念を象徴することで(例えば比例の美は秩序を象徴しているというように)建築化され、その象徴作用こそが美しさであるとするなら、修辞の美は何かを特に象徴しているわけではない。修辞の美は、ちょうど文学のそれと同じ様に、建築が本来内在している唯一の美しさなのだ。音楽が秩序の美しさを内在し、彫刻が静止した時間における動きの美しさを内在しているように。ロートレアモンは、まさか詩などというものになるとは思いもつかないような、普遍的な単語を組み合わせて、えも言われぬ見事な詩に昇華させた。普遍的な単語それ自体は、何の美しさもない。ミシンはミシンだし、蝙蝠傘は蝙蝠傘だ。同じく窓は窓であり、階段は階段である。修辞の美とは普遍的な部材を用い、ただその組み合わせによって美しさを奏でるものなのだ。「手術台の上の、蝙蝠傘とミシンの出会い」(L・C・de・ロートレアモン『マルドロォルの詩』)。この組み合わせによる異化作用こそが建築におけるレトリックの美しさだ。普遍的な単語が組み合わさって、思いもかけない象徴作用を生み出すことこそ、レトリックの美しさだろう。確かにレトリックはそれ自体何かを象徴するものではない。逆に、ありふれた単語がレトリックの規範に当てはまることによって象徴を生み出すことこそレトリックの美しさなのだ。13の美しさが何かを象徴したものの現れであるのに対し、修辞の美は自ら何かを象徴することにある。「すぐれた比喩は、知性を新鮮にする。」とウィトゲンシュタインは言う。
建築が本来内在する美しさを言葉にすると「荒れ地の上の、窓と階段の出会い」であり、この何の変哲もないありふれた言葉が、突然ものとして立ち現れる瞬間こそが、修辞の美である。修辞の美は、建築の威力に抵抗し、弱さに対する眼差しの美しさである。
建築が芸術でないとするなら、私が訪れたいくつかの建築で流した涙はいったいなんであるのだろうか。あの身震いが、建築の美しさに依拠していないとするなら、私は何に対して身震いをしていたのだろう。現在の建築が芸術でないことを、何の抵抗もなしに私は承知しよう。現在の建築は、芸術ではないと断言しよう。ただ、すべての建築が芸術でないとする昨今の言説は、暴力以外の何者でもない。いや、現在の建築にすら、私は時に美しさを見出す。それが修辞の美によることは言うまでもない。再びウィトゲンシュタインを出そう。私の涙は、身震いは、すなわち沈黙すべき語りえぬもの、の先にあった。言葉の通用しない、沈黙の先に、私は美しさを見出している。もちろんその美しさは修辞の美を除く13の美しさによるのかも知れない。しかし無知な私は、装飾が何を語るか、構成が、比例が、均整が何を語るかについてそもそも何も語れないのだ。語りえぬものとは、無知によって語りえないものではない。すべてを知った上でなおも語りえないものが、ウィトゲンシュタインのいう語りえぬものである。だとすれば、私の涙、身震いは、唯一私の知識の支配下にある、あの建築家の七つの武器によるのではないか。私は壁を知っているし、柱・梁・屋根・床・窓・扉も知っている。それらについて語ることも出来る。語りえないものとは、それらの配置である。配置に対して私は沈黙せざるをえない。沈黙し、涙を流し、身を震わせる。すなわち修辞の美とは、そのようなものである。
引き続きウィトゲンシュタインにこだわる。論理哲学論考の冒頭で彼は「世界は事実の総体である。」と言う。あのあまりにも有名な常套句、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」は、論理哲学論考の最後の一節だ。この二つは同じことを言っている。世界は事実の総体であるが故、事実でないものについては沈黙すべきだと、彼は主張しているのだ。つまり論理哲学論考は、その論理展開自体トートロジーである。にも関わらず、我々は論理哲学論考を無意味だと思わない。重要なのは問題と結論ではなく、その論理展開である、とウィトゲンシュタインは教えてくれている。であるならば、美しいものは美しい、というトートロジーにとって重要なのは、やはりその論理展開ではないか。ここで改めて言おう。美しいものは、美しい。涙を流すほど、身震いするほどに。建築は、やはり芸術である。
象徴へ至る二字熟語
冒頭に象徴という言葉を出した。これまでに何度も、象徴と書いた。ここまで無批判に象徴という言葉を出してきたが、果たして象徴とは何なのか、ということをここで問いたい。象徴という言葉ほど、多義に満ちている言葉もない。ひとまずここで、象徴という言葉の射程範囲を定めたいとおもう。この手続きなしには、この先の議論を展開することは不可能である。その前に、ひとまず認識と知覚の話をしたい。
見る、聞くなど、体験することを総合して「知覚する」とすると、知覚したものの意味をとり、自分の言語世界の中に納めることを総合して「認識する」と言うことが出来る。この関係は知識と知恵の関係に近いかも知れない。
これは「建築の美しさは何か」ということを考えるための文章であるから、以下、ひとまず建築に主眼をおいて考えていく。ごく単純に考えると建築は、物の世界に属している。前田英樹に倣って、物の世界を「質料世界」、かわって観念や概念など、物ではない世界を「観念世界」と言うとしよう。(前田英樹『言葉と在るものの声』)質料世界において、上記の知覚から認識に至る機構を理解することは、そう難しいことではない。というのも、知覚された物に名前をつければ、とりあえずは我々のボキャブラリーの中に納めることが出来る。鉛筆は鉛筆と、机は机と名付けることにより、目の前の知覚された鉛筆を鉛筆だ、と認識することが出来るのだ。ここでいう名付けとは、我々が持つ名称目録の中に新たな物を納めることではない。ソシュールがいうように、物の名前とは、その他一切の物の名前との差異で名付けられる。物の世界の鉛筆を言語世界において鉛筆、と名付けるとすると、言語世界の鉛筆はシーニュと呼ばれる。シーニュはさらにシニフィエ・シニフィアンと分けることが出来、シニフィエはシーニュ「鉛筆」の意味、シニフィアンはシーニュ「鉛筆」の、音もしくは文字のことだ。(F・ソシュール『一般言語学講義』)さて、シーニュの構造をひも解いたのはよいが、物の世界の鉛筆と、シーニュ鉛筆は、果たして一致するのだろうか。これを解決するためには、物の世界の知覚と認識がどのような仕組みで行われているか、ということを考える必要がある。
建築を一度離れ、鉛筆について語ろう。一般的に我々は鉛筆を、我々とは無関係に存在している、と考えるだろう。果たしてこれは正しいのか。もちろん鉛筆を、物として知覚することは出来る。が、認識するには、物の世界の鉛筆を、シーニュ鉛筆として捉える必要がある。例えば、我々は茎と葉を区別することが出来る。なぜなら我々が物の世界の茎と葉、シーニュ・茎とシーニュ・葉を既に知っているからだ。茎に茎という名前があることを知っているということも出来る。しかし普段気にもとめないだろうが、茎、葉、さらに茎と葉の結節点の三つを区別できるであろうか。茎と葉の結節点にどういう名前があるのか、我々は知らない。ちなみにそれは葉柄という名前がついている。もちろん我々は、普段から葉柄を見ている、すなわち知覚しているはずだ。にも関わらず葉柄を葉柄と認識できないのは、シーニュ・葉柄を知らないということに原因がある。普段気にもとめない、ということはシーニュ葉柄を知らないことに起因し、その結果知覚は出来ても認識は出来ない。だから、シーニュ鉛筆を知らない人は、鉛筆を鉛筆として認識出来ないのだ。この知覚・認識の仕組みはバークリーの『人知原理論』に基づく。
葉柄は、ソシュールの「言語は名称目録でなく、差異である」という言葉の理解にも役立つ。すなわち我々は、葉柄を取り出して葉柄と名付けるのではなく、葉でもなく茎でもない、葉と茎の結節点を葉柄と名付けるのだ。茎と葉の差異から、葉柄は名付けられる。
さて、知覚の段階から認識の段階に至るには、我々が「その物の名前を知っている必要がある」ということがわかった。では、どうやって物に名前を当てているのだろうか。ここでは、象と徴を用いた二字熟語が我々の理解を助けてくれる。
物の世界の鉛筆は、まず我々に知覚される。だからまずは、知覚の仕組みを考える。物を知覚するためには、物の世界鉛筆の表徴を知覚する必要がある。表徴とは、ある物事の表に現れているものである。表徴はさらに、形象と事象にわかれる。形象は、ある物事の表に現れている形のことであり、事象はある物事の表に現れた事を意味する。
カタカナにするとわかり易いかも知れない。形象とはフォルムというべきだろう。フォルムは物の色や大きさ、形のことを表す。一方フォルムはformのカタカナ表記だが、これはフォームとも読める。フォームには形式という意味がある。form自体の意味は形も形式も含まれている。
形象と事象からなる表徴を知覚することにより、我々はとりあえず鉛筆を知覚することは出来た、のであろうか。いや、物の世界鉛筆を知覚するためには、脳の中に物・鉛筆を映し出す必要があるのではないか。それを一般に、表象するという。表象は、よく象徴の意味で用いられるが、ここでは原義、「あるものごとを知覚した際、人の脳の中で見えているものや、人が考えたこと」という意味で用いる。
脳の中に鉛筆を映し出すこと、表象世界の鉛筆を知覚することで、初めて我々は鉛筆を知覚することが出来る。ここで物の世界の鉛筆はすべて消え去り、脳の世界での鉛筆が誕生する。では、表象世界の内部構造とはどのようになっているのか。いつ知覚が認識に移り変わるのか。ということを考えていきたい。
知覚された鉛筆を対象という。対象とは、ある物事を知覚したとき、知覚されたもののことをいう。物・鉛筆と、脳の世界での鉛筆、すなわち対象・鉛筆との違いは現象という言葉で表す事が出来る。現象とは、あるものごとのうち、知覚できる物のことだ。この、「知覚できる」という可能態の文章が知覚と認識の本質を見事に浮き彫りにする。どういうことか。先ほど述べた、枝と葉、葉柄を思い出すといい。物の世界では、枝と葉、葉柄はどれも存在している、にも関わらず我々が知覚できるものは枝と葉のみであった。なぜなら我々はシーニュ葉柄を知らないからであり、そのため葉柄を認識できないからだ。認識できないものは知覚も出来ない。さて、ここでようやく知覚と認識の違いが説明できる。すなわち我々は、脳の中に鉛筆を映し出したとき、言い換えると鉛筆を対象化した時、同時に知覚と認識を経験する。認識は知覚から引き起されるのではなく、知覚が認識に変化するのでもない。言語化できないものは認識できないものであり、認識できないものは葉柄のように知覚できないことを考えると、強いて言うなら認識が知覚に先立つと言うことは出来るかも知れない。だが、脳内においては、知覚と認識は同時に起こる。現象は「知覚できる」もののことであり、知覚できたものだけが対象として、脳内に存在出来るのだ。では何故知覚が先にあり、認識が後に起こる、というような錯覚が起こるのか。ひとまずこの疑問に対する答えは先延ばしにして、表象の内部構造について引き続き考えていきたい。
さて、知覚されたものを対象といい、知覚できるものを現象ということがわかった。どちらも脳内で起こるものだ。引き続き鉛筆について考えよう。脳内世界での鉛筆、対象・鉛筆は、物・鉛筆とどう違うのか。我々の眼球は歪んでいる。ユークリッド幾何学が、この目の歪みのためにトポロジー幾何学に優位を譲り渡したことは有名だ。目の歪みのために、水平線の歪みを地球が丸いためである、という錯覚を引き起したことも有名である。同様に脳内世界での鉛筆、対象・鉛筆も歪んでいる。これを心象という。カタカナに直すとイメージだ。心象・鉛筆と、対象・鉛筆はどう違うのか。これはシニフィアン・シフィニエの関係と似ている。対象がシニフィアン的な性格、心象がシニフィエ的な性格を持つ。つまり対象はあくまで脳内の鉛筆であるのに対し、心象・鉛筆は鉛筆が鉛筆であることを脳内で再確認するというわけだ。物の世界の鉛筆は、表徴・鉛筆であるとすると、表徴・鉛筆はシーニュ・鉛筆と言い換えることもできる。さらにシーニュとシニフィアン・シニフィエの関係から、表徴・鉛筆は対象・鉛筆と、心象・鉛筆に分けることができる。
鉛筆は同時に知覚・認識され、心象、つまりイメージとなってはじめて、脳内に確たる像を結ぶ。この時点ではじめて、鉛筆の持つ性質、固いか柔らかいか、綺麗であるのか醜いのか…つまり印象が生じてくる。印象に至る以前は、物・鉛筆をただひたすら受容していたに過ぎない。しかし印象が生じてはじめて、我々は鉛筆に能動的に働きかけることができるのだ。ただし、もし鉛筆を見たのが表現者だった場合、事態はもう少し進むだろう。表現者は心象が生じたその時から、表現でもって鉛筆に能動的に働きかけることが出来る。心象段階における能動的な働きかけを具象と呼ぶ。具象表現が我々非表現者に少なからず感動を与えるのは、非表現者が印象を抱かなければ、物の世界に能動的に働きかけることができないのに対し、表現者は心象の段階で能動的な働きかけを行う、という違いに依拠する。もちろん、具象表現の中には印象の段階で表現されているものも多くあるが。
心象から数ある印象を抱いた後、我々はその中でも、他の印象と比べ、特に際立った印象を見つけ出す場合がある。特に際立った印象を、特徴という。特徴が複数ある場合は、徴表と呼ぶ。諸説あろうが、特徴・徴表の時点で表現される表現物も具象というべきだろう。いわゆるデフォルメである。このデフォルメを極端に押し進めれば、象形となる。字義に従えば象形とは、「あるものごとの形を写し取って図形化すること」である。さらに、印象から特徴・徴表を取り出し、他を捨てた場合、それを抽象という。正確には取り出した部分を抽象、捨てられた部分は捨象と呼ばれる。抽象の段階で表現されたものも、抽象という。例えば、鉛筆の長さに特徴を見いだし、長さを表現すれば抽象表現ということになる。さて、いよいよ象と徴の二字熟語の最終段階に入る。最後は象徴だ。象と徴の二字熟語の最終段階が、文字通り象徴になるというのは面白い。日本語はかくも便利なものだ。
ひとまずここで一度、まとめたいと思う。物の世界の鉛筆の形象・事象、それをまとめて表徴を感じ取り、言語化の力を借りて知覚・認識する。知覚と認識は同時に起こる。知覚・認識された鉛筆は、対象と呼ばれ、現象は物の世界の鉛筆の表徴のうち、知覚できるものを意味する。ここに知覚・認識の同時性の根拠がある。対象は我々の認識の歪みにより、脳内で心象となる。心象は印象を呼び起こし、いくつかの印象のうち、特に際立ったものを特徴・徴表と呼ぶ。心象の段階で、印象の段階で、特徴・徴表の段階で、それぞれ各段階で表現されたものすべてを具象と呼ぶ。特に特徴・徴表の段階でデフォルメ表現された物を象形と呼ぶ。心象のうち、特徴・徴表だけを取り出したものを抽象と呼び、取り出されなかったものを捨象と呼ぶ。抽象されたものを表現した場合も、抽象と呼ぶ。具象と抽象の違いを最も簡単に説明すると、対象が何であるか即時に判明出来る表現物は具象、何であるかがわからない表現物は抽象と呼ばれる。

さて。象徴である。物の世界にある鉛筆を、象徴するとはどういうことか。一連の象と徴の二字熟語の進行により抽象まで行き着いた物の世界の鉛筆は、もはやそれが鉛筆であるかどうかすらわからなくなってしまった。そこに残されたのは、鉛筆の持つ印象のうち、際立って目立つものである。例えば、鉛筆から長さが抽象されたとしよう。我々は、長さを提示されても、それがすなわち何であるか、即座に判明しにくい。長さとは、差異によって位置づけられた概念であり、もはや質料世界を超えて、観念世界に属している。その判明しにくさを、わかりやすく置き換えるのが象徴だ。そもそも、象と徴を訓読みすれば、もう少しわかりがよいか。象りは「かたどり」と読み、徴は「しるし・きざし」と読む。象るは、そのまま型取ることであるし、徴(きざし)とは、物事の隠れた意味を読み取ることである。また、型取りの類語として、代理がある。よって象徴とは、質料世界の物の徴を、すなわち隠れた意味を読み取り、それを象る・型取る、すなわち代理することで形づける作用のことだ。徴(きざし)とは、表徴から抽象に至る一連の流れを意味し、象りとは、その流れを別の形で代理したものである。象徴とは、徴と象りの作用によって、質料世界から抽出された観念世界、目に見えない世界を、再び質料世界、目に見える世界に還していく作用のことと結論づけることができる。
そして、この対象から象徴に至る一連の脳内プロセスを、表象という。表象とは、脳内で行われる質料世界の代理物の事だ。プロセスを経るに従って、質料世界と代理物の類似点は少なくなっていく。
形而上概念を対象とした象徴
以上、質料世界の知覚・認識の仕組みを象と徴の流れに沿って説明してみた。一方、我々は目に見えないが存在している、と思える存在の存在を認めている。例えば時間だとか、美だとか、沈黙だとか、概ね旧哲学がその主題に置いた、形而上と呼ばれる世界のことだ。本論で、質料世界と対になる世界、観念世界と表現している世界のことでもある。知覚・認識という言葉を用いると知覚出来ないにもかかわらず、認識している世界のことだ。ということは、言葉は存在するが、その言葉を現実世界に探しても、目に見える具体物として発見できない世界のことでもある。
旧哲学と称したが、私はウィトゲンシュタイン以前の哲学を旧哲学と読んでいる。それほどにまで、ウィトゲンシュタインは強烈であった。「語り得ぬものについては沈黙せねばならない。」という、論理哲学論考のあまりにも有名な一文が、観念世界の本質を突いている。何故か。何故語り得ぬものについては、我々は沈黙せねばならないのか。この問いについて、考えていくこととする。
例えば、もう一度時間を考えてみよう。時間とは何か。この問いに答えを見いだすことは出来ない。何故か。時間とは、謎だからだ。すべての問いに答えを出すことが出来るのならば、謎は謎として存在しないことになる。謎、も形而上の一つだ。だから語り得ないのであり、沈黙するしかない。何故か。時間は抽象概念だからだ。象と徴を用いた二字熟語のプロセスによると、抽象は象徴の一つ前の段階だった。ある物を表象作用を用いて限りなく質料世界から遠ざけたところにある。我々が陥りがちな過ちとは、時間という抽象概念から表徴を見いだそうとすることなのだ。時間を質料世界にある物とみなすところに、過ちがある。
ウィトゲンシュタインは講義録、『青色本』で、次のように言っている。「例えば、時間の本性が何か、ということに困惑する時、時間が何か奇妙に思われる時、ここには隠されたもの、外から見ることは出来るがその中を覗き込むことの出来ないものがある。という考えに何にも増して強く誘われる。しかし、そんなものがあるわけではない。我々を煙に巻くのは、名詞<時間>の神秘的な使われ方なのである。」これは、時間から表徴を見いだそうとするという、我々が陥りがちな過ちをまさに言い表している。「時間が何か奇妙に思われる」のは、時間から表徴を見いだそうとしても何も見いだせないからだ。「 外から見ることは出来るがその中を覗き込むことの出来ないものがある」 という錯覚も、「 我々を煙に巻くのは、名詞<時間>の神秘的な使われ方なのである」という使われ方も、どちらも同じことを言っている。また、この引用文にたびたび出てくる、困惑・奇妙・隠されたもの・神秘的という単語は、すべて時間の無気味さからきていると考えてよいだろう。無気味とは文字通り、気味が無いことである。気味とはすなわち徴(きざし)のことであり、時間に徴は無い。時間だけでなく、死・沈黙・虚無といった、無気味を自らの性質として抱える単語から、時に愛や美、真実といったおおよそ無気味とは無縁に見える単語にまで、不気味さを感じることがある。このことは何よりも抽象概念に表徴が存在しないことを証明している。ウィトゲンシュタイン以前の哲学は、抽象概念を神秘的な名詞として扱う。その結末はたいてい、おおよそ的外れと思われる二元論(しかもカテゴリーミステイクな場合が多い)に突き走るか、もしくは、よく生きよ、というこれまた抽象概念を持ち出してきて、我々を煙に巻くことしか出来なかったようだ。しかし、「名詞」と表現したウィトゲンシュタインの力量には困惑するほどの鋭さを感じざるを得ない。人間は、この世のあらゆる質料世界から徴を見いだし、それを抽象化する際に出てきた何か無気味なものにたいして、言葉をつけて、この無気味さから逃れようとした。何度も言うが、そもそも言葉をつける行為は、無気味なものから逃れる手だてである。テラ・アマタを思い出して欲しい。言葉をつけることは、保存・圧縮・輸送において、とても有用だ。一度言葉づけられれば、次に無気味さに出くわした際にも、記憶となり、無気味さから逃れることができる。時々我々が出くわす、まだ名前のない現象に出くわした際に感じる無気味さは、名前をつけることで逃れることが出来るという事実から見ても、このことを理解することはそれほど難しくない。
究極には、それでも逃れることの出来ない抽象概念の無気味に時折我々は魅せられ、無気味さを神秘的なものとして扱ってきた。神である。神とは象徴作用であり、なおかつ抽象概念でもあるところに、その神秘さが宿っている。象徴を最もわかりやすく説明すると、抽象的な概念を具体的なものに置き換えることである。よって本来、象徴する物を質料世界に見いだすべきところを、無気味な抽象概念に置き換えてしまったところに神の神秘性がある。そして同じく、美しさも時に、神と同じ位置に座ることがある。我々が誕生してから愛して病まない神秘的で無気味な美しさは、ときに神と同じ椅子に座っている。時間に美しさを見いだすのも、愛に、真実に、そして空間に美を見いだすのも美を神と同じ椅子に座らせることに起因する。13の美が、象徴をよりどころとして美しさを纏っているというのも、この美しさの神格化が原因だ。だからこそ、機械時代を基礎としている現代建築に淘汰されようとしているのだ。
言語学からのアプローチ
にも関わらず我々建築家は、抽象概念「空間」に対して抽象概念「美しさ」を見いだす。あたかも空間に表徴を見いだし、象徴のプロセスに従って美を象ったかのように。これはウィトゲンシュタインに倣えば、〈名詞〉空間の神秘的な使われ方に原因がある。ひとまず、美はどこで感じられるのか、ということを考えてみる。
カントは『判断力批判』の中で、美は物に宿るのではなく、物を見た我々に宿るという。なるほど、質料世界に美は存在せず、物の表徴を読み取り印象の段階に至ったところで、美は存在するということだ。では先ほどから言っている脳内世界とは、観念世界とは、果たしてどのようなものなのか、ということを考えてみる。精神・心・悟性。脳内世界や観念世界を別の言葉に置き換えるとこのようなものだろう。すなわちカントの美学の中では、物と心は別の概念であった。
ベルクソンは『物質と記憶』の中で物心二元論を退ける。物と心は別々の概念ではなく、記憶の収縮と弛緩という二つの傾向の度合いの差だという。人間は、言語の圧縮能力によって膨大な情報を記憶の中に納めることができ、また記憶の中から情報を引き出すことが出来る。前田英樹は『言葉と在るものの声』において、ベルクソンを引き合いに出し、記憶と言葉の関係について鋭い指摘をしている。
前田は前傾著書の冒頭において、物も心も存在していると主張する。ここでベルクソンを引いて、物と心と記憶の関係について次のように主張する。記憶が弛緩すると物の世界に近づき、記憶が収縮すると心の世界に近づく、と。さらにベルクソンにソシュールを掛け合わせ、記憶を言葉に置き換える。すなわち、シーニュの収縮がシニフィアンとなり、シーニュの弛緩がシニフィエとなるという。よってシニフィアンが物と対応し、シニフィエが心と対応すると前田は主張する。(ここで対象と心象がそれぞれシニフィアンとシニフィエに対応していたことも忘れてはならない。)よって記憶はシーニュに対応し、記憶・シーニュの弛緩が物・シフィニアン・対象に、収縮すると心・シニフィエ・心象に対応する。構造言語学の偉大な点は、言語を物の世界にも心の世界にも位置づけなかったところだ。
構造言語学者という名詞が登場した。これまでソシュールを参照してきたが、ここでもう一人の言語学の始祖に登場してもらう必要がある。パースである。パースはソシュールとは異なった方法で言語学を構造化していく。ソシュールが言葉の構造を差異に見出したのに対し、パースは言葉を入れ子構造だと見る。例えば辞書である言葉を調べると、その説明文の中にわからない言葉が出てきて、その言葉を順々に調べていくと、最初に調べた言葉に戻ったことがある人ならこのことは解りやすいかも知れない。ソシュールは差異を言葉の本質と見たために、その性質を分類することが不可能だったのに対して、入れ子構造は分類することを可能にし、加速させる。パースの分類癖はアリストテレスのそれを凌駕していると言われる理由がここにある。膨大なパースの分類すべてをさらうのは不可能だろう。それほど深くさらう必要もない。ここでは最も簡単な、第n次性という分類分けについて取り上げる。パースは言語学者というよりは、それを超えて記号論の始祖であると言われる。記号論学者の立場から、この世のすべてのものは記号である、とパースは考える。その上で最も基礎的な分類分けとして第n次性記号が考え出された。ものとして、いかなるものとも無関係に存在する記号を第一次性記号と名付ける。順次、あるものが、他のものと関わって存在する記号を第二次性記号と名付け、二つのものを結びつける三つめの要素である記号を第三次性記号と名付ける。例をあげると、第一次性記号とは、花の香りや機械音のような感覚を刺激する記号のことである。第二次性記号にあたるものとして最も端的なものは、人間が嗅いだ花の香りというものが挙げられよう。第三次性記号にあたるのは、その花を幾本か摘んで花束とした場合の、花束にあたる。ここでは同じ花でもそれが第一次性にあたるのか、第二次性、第三次性にあたるのかは「花の置かれた状態の違いにしか過ぎない」ということが重要だ。言い換えると、第一次性記号は第二次性記号を規定し、第二次記号は第三次記号を規定しているといえる。ここでようやく抽象名詞・空間が登場できるわけだが、そもそも空間には表徴が存在しないということは先ほど見た通りである。よって空間は何にも関係なくただ独立して存在しているという意味で、第一次性記号と言うことが出来る。しかしそこから何かを読み取ることが出来ないため、第二次性以降に発展していかない。あくまで私達が建築から読み取っているのは、物として表れている建築部材である。
もう一度ソシュールを見る。ソシュールの定義した言語学用語に、ラングとパロールがある。ラングとは、言語構造を構成する文法やら語法といったシステムのことで、パロールは話し言葉や書き言葉といった、現実に表れた言語のことである。丸山によると、ラングはフロイトの前意識にあたり、パロールは意識にあたるというと解りやすい。(丸山圭三郎『言葉と無意識』)前田はラングが心、観念世界に属しているのに対して、パロールは観念世界と質料世界と言語世界の三界を一気に跨ぐという。わかりやすい言葉にすると、パロールは心と物と言葉をつなげる役割を持つ。ここで抽象名詞・空間について再考しよう。抽象名詞には、物の側面が存在しない。ウィトゲンシュタインが批難したのは、パロールにおいて、いかにも抽象名詞に物としての側面があるかのように語る、その行為なのだ。パロールは物と心と言葉を跨いでしまう。この利便性が、誤った使用法に陥る原因である。また、パースを持ち出すと、空間は第一次性記号であるが第二次性記号とはならない。空間はそれ自体で独立している記号だ。
トロープの効果
ここまできて、レトリックについて書く準備がようやく整った。レトリックはスキーマとトロープに大別されると書いたが、ことトロープは「パロールの利便性による陥りがりな過ち」を解消するという役割を持つ。どういうことか。まず、階層構造的にはパロールの中にロトープが含まれるということを抑えておく必要がある。そのためトロープがパロールの代役と言うことは不可能だが、トロープを用いれば抽象名詞をパロールで扱うことが出来るのだ。トロープの「置き換え」という操作によって抽象名詞は物の世界へと移行される。我々が空間に対して美しさを見出す時、それは建築部材に美しさを見出していることと同義である、と先ほど述べた。加えて、トロープによって「置き換えられた物」を通じて、抽象名詞それ自体に美しさを見出していると言うことも出来る。いや、もう少し詳細に書くとすれば、トロープの作用自体が美しいのかも知れない。「すぐれた比喩は、知性を新鮮にする」という ウィトゲンシュタインの言葉をもう一度引用しよう。すぐれた比喩とは、まだ慣用表現になっていない、いわゆる使い古されていない比喩のことを差す。レトリック文と通常文という二分法を先ほどから何の断りもなしに用いているが、そもそも通常文すら、慣用表現なのだ。レトリック文と通常文の違いは、文の使用頻度によって決まる。どこで誰が決めるともなく、我々は「正しい日本語」という幻想を抱きながら社会生活を営んでいるのだ。このことがすでに興味深い。では、何故「正しい日本語」のような幻想を抱くのか。
ここでもう一度ソシュールとパースを引き合いに出したい。ソシュールは、言葉は事物の名称目録ではないという認識を出発点として、言葉はある物と別の物が違うことの証である、という認識に立つ。このことを理解するためには、オレンジ色を知らない人にオレンジ色とはどれか、と教えることを想像すれば容易い。例えばオレンジ色のカードを持ってきて、これがオレンジ色だと教え込んでも、その人は依然としてどれがオレンジ色であるかわからないという。そこでオレンジ色と共に、赤や黄色・茶色といった、オレンジ色に近い色のカードを用意し、オレンジ色は、赤でもなく黄色でもなく茶色でもない、という教え方をすると、途端にオレンジ色がどれであるか理解できるという。この理解の方法をもって、ソシュールは「言葉は差異によって成り立つ」と言った。例えば鉛筆は、ボールペン・万年筆とは異なるから鉛筆である。狼は、犬とは異なるから狼なのだ。どれを犬と呼び、どれを狼と呼ぶかは、名付ける人の恣意に委ねられる。これがソシュールの言葉観である。一方以前にも書いたがパースは、言葉に重なり合いがあるという立場をとる。辞書の堂々巡りの例がわかりやすいだろう。なぜ両者の間にこのような認識の違いが起こるのか。実はどちらの立場も正しいのだ。確かにはじめて物に言葉を当てはめる時の基準は、差異である。しかし忘れてはならないのは、言葉の意味はこの世界の事物に対応するということだ。この世の事物が互いに絡み合っている以上、言葉も互いに絡み合う。言葉の絡み合い、つまり隣り合っていることや重なっていることが、ぶつかりあう瞬間に、新鮮な比喩・トロープが生まれる。その言葉が本来もっているにも関わらず、隠されて見えなくなっていた意味の極限が、トロープの作用によって再発見される。それは同時に、ある言葉の対応する事物における、見えなくなっていた側面の発見でもある。詩学者・赤羽研三は、通常文とレトリック文の違いは、その使用頻度によると言う鋭い指摘を行っている。(赤羽研三『言葉と意味を考えるⅠ』)この指摘は、ウィトゲンシュタインのいう新鮮な比喩と、使い古された比喩の違いも説明することができる。使い古された比喩が我々に何の感動ももたらさないのは、隠された意味がすでに暴かれて、我々が既にそれを知っていることによる。トロープの感動は、ソシュールの言語観では決して説明することが出来ないし、パースのそれでも同じことだ。言語学界ではソシュールの立場に立つかパースの立場に立つかで、自分の立ち位置が決まるようだが、ことトロープに関しては両者の考え方が必要になる。以下、図を用いてこの章のまとめとしたい。