《北鎌倉にて》に住んで1年が経った。
これは、いま僕にできるひとつの
である。
《北鎌倉にて》に住んで1年が経った。
これは、いま僕にできるひとつの解釈である。
《北鎌倉にて》に住んで1年が経った。
これは、いま僕にできるひとつの分別である。
自邸か自宅か、果たしてそれ以外の名称があるのか。ある言葉で対象をまとめようとしたとき、僕は言葉でまとまりきらない意味の方に、気が回る。自邸という言葉は、僕の家であることを意味する。ここには妻も住んでいるのに、その名は妻を取りこぼしている。これは名称の問題に留まらない。設計者が意図を持って何かを決定するとき、その意図からもまた、別の意味がこぼれ落ちる。だからこれは、名称の問題であると同時に、設計の問題でもある。設計において根拠を示すことは、決定にひとつの意味を与え、説明を容易にすることでもある。例えば、眺望は窓の位置を決定する強い根拠になる。窓はその時、ピクチャーウィンドウとして名付けられる。そう設計される。しかし、強い根拠によって説明できる決定からは、空間体験や身体感覚、生活の側から見えたはずの意味が、説明の外に残されるかもしれない。得てしてピクチャーウィンドウは、窓にしては大きく、体験をそこに集中させすぎる。なにより、掃除がしづらい。
ここで浮かび上がるのが、説明責任と設計責任の違いである。説明責任とは、決定に対して明確な根拠を提示することであり、設計責任の一部である。しかし、設計責任はそこに尽きない。与えられた条件の中で建築を成立させ、その決定が空間や生活にもたらす影響を引き受けることもまた、設計責任である。《北鎌倉にて》は、説明責任だけではすくい取れないものの方に目を向けた。
例えば、モジュールについて。《北鎌倉にて》の寸法体系は、根拠の異なる二つのモジュールによって構成されている。平面寸法には910mmを採用した。これは予算や施工合理性を背景に、住宅産業に共有された、公的で説明可能な根拠である。
一方、立面寸法には、910のような利便性の高い決定根拠がない。しかし決定は避けられない。そこで43mmというモジュールを導入した。43という数字の根拠は、「自宅が資産である」というダジャレにすぎない。ただ、出所はどうであれ、モジュールである以上、垂れ壁の下端、コンセントやスイッチ類は43の倍数によって整えられる。段床の形式がここに加わると、ある場所の垂れ壁の下端が、別の場所のスイッチの高さと一致する。同じく43の倍数である172mmや2021mmは、蹴上寸法や天井高さとして採用した。ダジャレにすぎなかった数字は、離れた部位同士を関係づけながら、住んでみると寸法として身体にも馴染んでいた。
つまり43は、決定を正当化するための根拠ではなく、決定を可能にするための根拠である。だが、その弱い根拠が身体に作用し始めるとき、910もまた自明な寸法ではいられなくなる。たしかに910は、木造軸組構法における合理的な寸法である。しかし、それは必ずしも空間体験や身体のための根拠ではない。43が頭にあったからこそ、身体は43を検証した。その過程で、汎用的なモジュールであるがゆえに検証不要であるはずの910もまた、身体的な検証を受けた。一年が経った今、910は身体的に特に気になる数字ではなかった。しかしそれは、43を退ける結論ではない。43は、少なくとも僕にとって、910を自明な寸法として受け取ることを難しくした。同時に、910は43の恣意性を問いただしている。
構造柱は60、90、105、150という複数の寸法体系によって構成されている。それぞれの寸法は外壁、三廊式、入れ子、方形といった形式に割り当てられており、柱には単なる構造材としてだけでなく、形式の差異も担わせた。60、90、105の柱は、構造的合理性と平面的合理性を同時に満たし、壁内におとなしく収まっている。しかし150の柱だけは異なる。方形の隅棟の角度に揃えるため、構造的には45度回転させることが合理的だった。だがその決定は、平面の秩序に対しては不調和として現れる。
住んでみると、平面としては不調和な150の柱が、空間の中では単なる不調和としては現れない。むしろ150の柱は、構造的合理性と平面秩序のずれを露出させ、この家に複数の形式が重なっていることを読み取るための、明瞭な手掛かりとして機能しはじめた。
屋根について。この家の輪郭は、外壁だけを見ると六角形である。方形や入れ子の形式がもつ正方形という幾何学が、スプリットの形式によって開かれた結果として、外壁は六角形になった。だが、屋根はその六角形をそのままなぞっていない。外壁と屋根の輪郭がずれている。
屋根を六角形とすると、南側には山折りが、北側には谷折りができる。山折り部に大きな問題はない。谷折り部には谷樋が生じる。雨が一点に集中し、雨漏りのリスクが高まる。そこで、谷樋となるはずだった北側の折れ点を消し、二つの頂点を結んだ。結果として、屋根の輪郭は五角形となった。
外壁において成立していた六角形は、形式の重なりから導かれた幾何学的な帰結である。屋根もまた、その六角形をそのままなぞることが、幾何学的にはもっとも素直な操作だった。しかし、その六角形は屋根において五角形へと変形された。形式の重なりから生まれた幾何学が屋根という部位に現れると、雨仕舞いという物理的条件にさらされる。幾何学的な根拠が屋根として成立しようとする中で、雨仕舞いという別の根拠に触れ、輪郭そのものが変化しているのだ。
何かを決めることは、何かを退席させることである。これは避けられない。だが、その退席は、必ずしも形式同士の優劣によって起こるわけではない。寸法のように、根拠同士が互いを揺さぶることもあれば、屋根のように、形式が物理的条件に触れた瞬間に変形されることもある。説明しやすい決定ほど、何を退席させたのかを忘れやすい。説明可能になった決定によって何が見えにくくなったのかを問い続けることもまた、設計責任の一部であろう。
一年が過ぎた。垂れ壁の下をくぐる。同じ数字で整えたはずの下端は、くぐるたびに少しずつ異なる場所として身体に現れる。150の柱の前では、構造的には正しいはずの角度が、平面の中でわずかに身をよじっているように見える。そこに立つと、根拠は説明としてではなく、違和感として先に届く。天井に残る方形の痕跡は垂れ壁によって途切れ、視線だけが奥へ伸びていく。この一年は、家という言葉に何度も戻される日々だった。妻も家に慣れ、僕の意図(と趣味)を越えて、自分の気に入った家具を置き始めた。飼っていた文鳥は寿命を迎え、庭の木の下で眠っている。日々の生活は繰り返される。
もっとも、この解釈もまた、いずれこの家で繰り返される生活の中で、少しずつ別の問いへと置き換わっていくのかもしれない。
自邸には6つの机がある。机は一直線に並んでいる。床には真鍮の見切りがあって、机の中心線を床見切りに揃えて暮らしている。床見切りを机のガイドにしているというわけだ。机は6つとも四角い。ある日、どう机を微調整しても、垂れ壁や壁に合わないことに気づいた。CADを開き、角度を測ると、スプリットの中心線から5度ずれていた。確かにずらしたことは覚えているが、なんのためにずらしたのか、まるで思い出せない。僕の物忘れ癖のせいか、あるいはもともと理由などなかったのか。少なくともいまの僕にとって、その5度の角度は根拠を失ったまま、この家に存在していた。ただし、床見切りは当然、床見切りとしてきちんと機能している。
机がなければ、床見切りは「機能性」というラベルに入ることになる。ただし、5度の消化できない謎を残したまま。机は、床見切りをガイドとすることで、床見切りに残った未消化の5度を、「ガイド」というラベルに分別しなおした。もちろん、机を動かすと、床見切りからガイドというラベルが剥がされる。
机の上に目を向けてみる。今日も机は散らかっている。推敲のために印刷した原稿、食べ終わったお菓子の袋、飲みかけのアイスコーヒー、未開封の小包。これらはすべて、なんらかの根拠をもって僕の家に届いたはずである。けれど、それぞれの根拠に脈絡がなさすぎる。脈絡がないから、散らかっているように見える。一刻も早く片付けたいが、めんどくさい。特に分別はとてもめんどくさい。
このめんどくささをやりすごすために、僕は「未配」という言葉を思いついた。未配とは何か。
配達には、差出人がいて、受取人がいて、配達人がいて、配達物がある。未配は、そのうち差出人や受取人ではなく、配達物の方に主体を置き直す考え方である。例えば、Xで「おはよう」とポストされる。その言葉には当然、書き手がいる。いつか読み手も現れるかもしれない。けれど、タイムライン上では、まず「おはよう」という言葉だけが漂っている。未配は、漂うおはようという言葉そのものに目を向けている。ポストが誰かの目に触れた瞬間、いいねやブックマーク、ミュート、読み飛ばしといったラベルへと分別されていく。たぶん、最も多いのは読み飛ばしである。言葉は存在しているが、扱いが決まるまでは未配のまま残るというわけだ。
ゴミ捨てがめんどくさい僕は、机の上のものは未配の束だと決めつけて、分別を保留した。袋も小包も、未だ僕には届いていない。分別されるまでは未配だ。
机の上のものが未配の束なら、自邸もまた未配の束である。これが、一年ここに住んだ僕の感想だ。建築物はさまざまな決定の結果としてできる。意図や根拠の有無にかかわらず、決定の結果は情報として、建築物のあちこちに残る。これらの情報は、最初から意味として分別されているわけではない。少なくともこの自邸では、竣工は未配の状態で起こった。未配は分別されるのを待っている。
こういうとき、批評家としての僕はすぐにコンセプトという便利なラベルを持ち出したくなる。コンセプトは、建築家がよく使う強力な分別方法だ。コンセプトは未分化な情報の束を一列に並べる。コンセプトという分別技術は、建築家と建築物のあいだに一本の線を通す。差出人も受取人も、何なら情報の配達人としてのメディアも、この一本の線を頼りに、情報を処理できる。とても便利だ。あるいは、作家性も強力な分別方法である。情報を意味として分別しなくても、一目見たら、誰が差出人かすぐわかる。
そう考えるとやはり、自邸は分別がされきらないまま竣工している。全体を一息に分別するような明快なコンセプトはなく、初作であるため、共有された作家性もまだない。さて、ここからコンセプトを作るのが良いか、あるいはテキストで作家性を限定するのがよいのか。どちらもとてもめんどくさい。
そこで机の上のように、自邸にまつわる情報の束を未配として考えることにしてみた。未配のいいところは、差出人も受取人も配達人も後ろに下がることである。でも、配達物だけは存在している。さらに、都合のいいことに、ラベルによる分別は後からでも可能だ。
特に自邸には、7つもの形式がある。また、コンセプトがないため、窓、柱、床見切り、照明など、各部の決定が、一本の線で結ばれない。それぞれ別の根拠で決定されている。ただし、まったくラベルがないわけではない。形式は強力なラベルである。住みながらゆっくり、どの形式に当てはまるのか、楽しみながら分別すればいい。そう思っていた。
冒頭の床見切りに戻ろう。5度ずれている。どの形式にも当てはまらない。形式による分別は役に立たない。この未配をどう分別すればいいのか。ここで机が登場した。机によって、5度はガイドというラベルを貼られて分別処理された。
分別不能な情報は他にもある。軒先でそれは発見された。軒先は誰だってシャープな方がいい。敷地にも余裕がある。設計上、樋は自然と消えていった。樋がないため、ケラバも最小限で済む。軒先はどんどんシャープになっていく。軒は十分に出ているし、ポーチも作ったから、雨の日は余裕を持って傘をさせる。最高だ。
住み始める。やっぱり軒はシャープだ。最高。朝、ゴミを出しに行く。眠い。晴れている。頭に水がかかる。目が醒める。何だろうと思い、シャープな軒先を見ると、水が滴り落ちている。雨漏りか?
ゴミを出し終わって検索してみたら、放射冷却による朝露だった。この朝露を、僕はどんなラベルに入れていいかわからない。朝露は配達物で、屋根の上に確かに存在している。生活の上ではそれなりの重荷だ。こんなふうに、分別に困る未配がどんどん増えていく。
ポジティブに考えよう。生活者にとっての僕には、未配の数が増える方がありがたい。自邸は僕らの生活を邪魔しない。自邸自身が未配の束であるかぎり、設計者としての僕はすぐには前に出てこない。その限りにおいて、瑕疵というラベルは後ろに下がる。例えば、自邸にまつわるあらゆる情報を、コンセプトというラベルによって分別していたら、机の上の未配たちを僕は即座に分別したくなる。いや、設計者としての僕が、生活している僕にそうさせると言った方が正確だ。もし僕に作家性があれば、設計者としての僕が、生活者としての僕の自堕落を嗜めていただろう。作家性において、自邸は穢れなき作品なのだから。幸い、自邸にはそういう縛り付ける厄介者がほとんどいない。
さらに。未配は、必ずしも僕が分別しなくてもいいはずだ。写真家でも、批評家でも、建築家でも、家族でも友達でも、友達の友達でもお隣さんでも、誰でもいい。誰かが未配に気づいて、彼らのラベルで分別してくれる。内覧会をしてみて、そう思った。とはいえ、大抵の場合、配達物は読み飛ばされる。
未配として自邸を見ることは、決定をしないことではない。いずれ分別という決定は訪れる。未配は分別されるまで、ラベルを増やす時間を与えてくれる。納まりに失敗したと思う箇所がある。失敗というラベルを貼れば、それは失敗だ。反省はあれど、もう見なくて済む。
しかし、未配は失敗であるかどうかを保留させる。失敗していそうな納まりに、失敗とは別のラベルが生まれるかもしれない時間を与える技法だ。もっとも、その間、僕たちは失敗していそうな納まりを見続けることになる。未配は見えないわけではなく、存在しているのだから。分別されるまで、配達物は未配のまま、漂いながら存在している。机の上はそろそろ片付けよう。
ただし、未配にも限度がある。眺めていられる未配と、頭に落ちてくる未配は違う。つまり、朝露だ。朝露はなんとかしたい。思いついた。樋を後付けすればいい。玄関を出て、雨樋を留める場所を探す。軒先をシャープにし過ぎて、ケラバがないことを思い出す。途方に暮れて、ふと目を下げると、朝露が落ちて砕石に黒いシミができている。朝露が図面を描いている。けれど、その図面には、まだ樋の納まりは描かれていない。朝露が、また僕の頭を濡らした。両手は分別済みのゴミで塞がっている。傘はさせない。