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in Kita-Kamakura / 北鎌倉にて

[自邸をつくった動機]
この家は、建築家である私の自邸として計画が始まりました。自邸というと、建築家が自分の考えや好みを思いきり反映させた、特別な家のように聞こえます。私も最初は、そういう家をつくろうとしていました。
けれど、あるとき妻に「団欒がない」と言われました。
その一言で気づいたのは、この家は私の自邸である前に、私たちが毎日暮らす場所でもある、という当たり前のことでした。建築家にとっては作品でも、住む人にとっては食事をし、洗濯をし、掃除をし、眠り、時には何もしないための場所です。
この家は、北鎌倉と呼ばれる場所にあります。
北鎌倉という名前には、寺や山、古都の静けさといったイメージがあります。けれど実際のまわりには、バス停や小さな商店街、住宅地の日々の生活があります。この家では、そうしたずれを無理に消さないようにしました。
建築家の自邸でありながら、家族の居場所でもあること。
北鎌倉という名前を持ちながら、北鎌倉台の生活の中にあること。
落ち着いて過ごせる場所でありながら、どこか別の場所が気になってしまうこと。
家の中に立つと、一つの場所を見ているつもりでも、視線は少しずつ別の場所へ移っていきます。同じ白い壁や天井も、光や角度によって違って見えます。正面から見ようとしても、どこかが少し逃げていくように感じられます。それは、家をわかりにくくするためではありません。
家というものは、もともと一つの言葉では言い切れないものだと思います。作品であり、生活の場であり、誰かの持ち物であり、誰かにとっては他人の家でもある。家族一人ひとりが持つ、家のイメージも違うかもしれません。つくった人の考えだけでなく、住む人の使い方や時間によって、家の見え方や役割は少しずつ変わっていきます。
《北鎌倉にて》は、その変わっていく途中にある家です。何か一つの答えに向かってつくられた家ではなく、住みながら、見ながら、使いながら、家族それぞれの見え方が少しずつ生まれていく家です。
建築家の自邸として始まったこの家は、日々の生活の中で、いつか私たちの自宅と呼べるものへ近づいていくのかもしれません。家は、はじめから完全に自分のものではなく、どこか他人行儀なものです。その距離が少しずつ変わっていく時間を、この家では急がずに待ちたいと思っています。
[批評としての設計趣旨の抜粋]
北鎌倉の新興住宅街に建つ自邸。
誰に求められるわけでもなく、自分で自分の自宅をつくるなら、自分の意図を隅々まで張り巡らせたもの以外のものに住みたいと思った。僕の中ではどれもが腑に落ちない、言い換えると永遠に解釈を続けられるようなものをつくりたいと。
「設計意図と建築物の一致とは何か」を突き詰めた結果、設計意図を定めずに、朧げに浮かんできた7つの形式を、同じ平面・断面・立面に重ねた結果として出来上がった住宅である。
結果として、美しいのか、豊かなのか、好ましいのか。デザインとして成立しているのか破綻しているのか、住みやすいのか、そうでないのか。何の意味があり、何の効果があり、社会的にどうで、歴史的にここに接続する……。こうしたことを拒んでいるようで、時折、その評価を受け入れるような、何とも言えない(解釈の難しい)建築物が出来上がったと思う。












© Shin Yamane
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